こざこざるつぼ

こざこざしたものを、るつぼに入れてくよ

銀の匙

中勘助の「銀の匙」は作者が生まれてから眼に映る鮮やかな世界を丁寧に追いかけたもので、自伝に近い。

病弱なことと生来の気質、様々な要因によって作者は普通の子らと同様の幼少期は送らなかったかもしれない。移り変わる季節をみせる植物や、そこに絡みつく人の営み。

出会っては別れ、移ろいで行く関係性の中で育まれていく人間への価値観。

当たり前な美しいものに対する子供のような驚嘆を抱えたまま、美しい世界を拾い上げて成長していく様に胸打たれる。

 

何一つとして特別なことはない。己を憐れみも褒めも見下しもしない。巻末解説から言葉を借りれば「水平な視点」が一貫して作中に貫かれているからこそ、眼に映る景色を丁寧に丁寧に写し取ったような描写や、そこに注がれる作者の純粋な驚嘆にみずみずしさを得る。

 

育ての親であるおばさんから始まって女性が立ち代り現れるが、いずれも一人の人間として装飾なしに捕らえられているがために、明治にありがちな女性の朧な姿はない。一切の引っ掛かりなしに私は彼女たちを、実際に網膜にうつし言葉を交わし、翻弄されたように錯覚すらした。時代変わろうと変わらない人間を見つめるある種の叙情は、道徳という先入観にとらわれないのびのびとした思考を感じさせる。

 

それは戦争、男はかくあるべきという兄の主張、学校で教わる孝行への懐疑にまで及ぶ。斜に構え偉ぶった言葉ならば、すぐにうんざりしていただろう。あくまで当たり前に事実を受け止め、なぜかを考え、なっとくできないから問いかける子供のような素朴さがある。その目は文を透かして私までじっと見つめる。

繊細で柔らかな心が、筋の通った論理と確信でもって「本当か」伺う。

 

崖の上で作者が夕日を見つめながらこの子供のような心を保ち続けなければならないと思った鮮明さ。くっきり浮かび上がる一人の人間の姿は、景色の中で柔らかな陽の光や波音の中で自然の中で息をするように馴染んでいく。

そしてなお、あの子どもがじっと見つめ純粋に問いを投げかける。

気づかせようとする意図も何もない。ここに気づいたが、君はどうか。17の青年が捉える美しい世界の色に、その彩りを無くした私の凝り固まった考えに、冷え冷えとしただけだ。

 

むすかしい言葉はないのになぜあんなに鮮明なんだろう。難しくないからか。知っていた風景のような気すらする。自然豊かな光景に懐かしさはない。私は車が往来を走る平成に生まれていて、病に強く、はしゃいで過ごした。ただその風景を知っている。一つ一つのひらひらとした柔らかで包むような様を、知っていたように思う。ずっと小さな頃に。それを写し取って言葉に載せることの難しさは置いてきた感性の中でたぶん埋もれてしまった。

 

明治45年に漱石へと送られ、大正2年に朝日新聞にて連載が開始されたそうだ。

細やかに描かれる世界の美しさに、なぜか「悪童日記」を思い返した。かの双子もそうだ。平らな思考で、当たり前でもって世界を捉える。偏った激情は存在しない。

どこまでも純真な子供の目に、早熟な理性でもって、じっと見つめてくる。

たぶん私はその眼に弱い。

ラテルラとシンバルの森

「あまりに軽率が過ぎるというものさ!」

大仰に手を振りかざし、ラテルラは笑った。しかして、僕には水鉄砲が握られている。いかようにもできる。ラテルラだってそれをわかっているので、特に僕が反応しないことに対しても何も言わない。ラテルラは小さくて骨の浮き出た足で、焼けるような砂浜を歩いて行く。

 

ここにトントはいない。いなくなってしまったと誰よりもトントを望んだクルシュガンが言ったのだ。彼は自分のことを旅人のように言っていたけれど、その実トントからいつまでも離れられないだけの亡霊だ。誰と話しても何を食べても肺に吸い込む空気の濃度すらきっと彼はわかっていなかった。わからないことだけがトントを求めるに足る資格だとすら考えていたように思う。それも思考の果てにあったのか疑わしい。

とにかく彼らは飛行船に乗りやってきた。僕らの住む偏屈の森に。森の外側は砂漠である。そこに飛行船は不時着というにはあまりに計算されきった故障具合で、突然現れた。砂漠とはいうが、それはどこか水の気配を帯びている。砂浜を遠くまで引き伸ばしたような。あるいは海底に足をつけながらも、水だけが全て蒸発してなくなった直後のような。湿っぽさが風に滲んでいたのに砂しかないから海とは呼べないのだ。

砂は白く、粒状で、あまり風に乗って飛ばない。時々光に反射する。それをトントは道路反射鏡を磨くおじさんの成果なのよ、私は信じていないけれどと言う。そんな風にして、彼女はごく当たり前に僕らの村に馴染み、そしてすぐに空気になった。

 

思い出すたび、彼女の存在だけが浮き彫りになって行く。けれど僕らは彼女が何を言って何を行なったのか明確に口にすることはできなかった。もしかしたらその場にいた人はできるのかもしれないが、時間が経つにつれ、その場から本人すら隔絶し、過去のことになって行く。過去になる以上、ますます輪郭は曖昧になり、やがてトント、それだけが残る。道路反射鏡の話すら隣に立つワームフォールが繰り返すように呟いたから記憶に残っているに過ぎない。ワームフォールは本当に喋ったのだろうか。僕が無理にトントに僕でも認知できるかたちを与えようとして理由ずけしているにすぎないのかも。声も、吐息の温度も、肌の質感も、髪の細さも、何もかもが楼閣の向こうに滲んで、思い出す作業すら消えて行く。そして二度とは戻ってこないのだ。トント。トント、それだけがこびりついている。ああ、彼女のくるぶしの美しかったこと。どうだろう。ギ・クルシュガンがそんな風に言っていたから僕はトントのくるぶしが美しく、何者にも代えがたいほどに不安定で、なぜあのくるぶしがトントを支えられていたのかわからないほどに華奢だと思い込んでいるんだろうか。

 

僕らは彼らを迎え入れた。歓迎も忌避もなく、朝に出かけた子供が夕飯時に帰ってくるように迎えた。特に誰の家族でもなく、他人でもなかった。僕らに対し全てが平等だったのだ。ワームフォールは一切の関与をせず、トントは均一な興味と愛情を持って僕らと接したように思う。そして僕らも彼らに特出した感情は持ち得なかった。ギ・クルシュガンは気が付いているのだろうか。あの扁平な愛情がトントだということに。きっと知っていた。だけど気がついてはいなかった。彼のことは彼以外のみんなが、会えばすぐ理解できる。少なくとも僕らはそうだ。

 

ワームフォールは会話をしない。ただ彼女が村に火を放ち、僕らの命より大事なシンバルを粉々に砕いた。彼女は善心による。そして僕らはそれに感謝すらした。あの美しい炎。木々に飛び散る火の粉の不確かさ。照り返る光に反射する砂。トントはハンマーで23回シンバルを殴った。だけどシンバルは歪み、金属になっただけだった。僕らは息を飲んでその光景を見守った。その横で家が崩れ、逃げ遅れたおじいさんすら、彼女がシンバルを殴る澄んだ音に耳をすませていた。鳥の声もなく、ただ無機質に有機物が燃えて行く音と、断絶した彼女の振るうハンマーの重力だけが確かだった。誰もが泣いていた。ありがとう、と子を抱いた母親が言う。

さざ波のようにありがとうは広がった。それでも音にはならなかった。なぜなら音は伝達されるものであり、あの時僕らは一つの塊になっていて、心が溢れたからと言って伝達されるべき対象はなかったからだ。僕という個人が心のうちで、考えるより先に、脊髄の脳幹から細胞液が滲むようにごく自然に、胸中で感謝の念を抱くのと変わらないのだ。なぜならあの時、僕らは一つの生き物だったのだから。

そこでワームフォールが歪になったシンバルを撫でた。歓迎されるべき行為だった。トントはワームフォールの手ごとシンバルを叩く。大上段から振りかぶったハンマーは今度は一撃でシンバルを砕いた。

 

灰塵は砂漠に降り積もった。そこで、村長が不意にしぼんだ。比喩表現ではない。心臓部に向けて収縮するように皺がよった。たちまち痩せた手は骨になり、目は落ちくぼみ、薄っぺらの皮膚だけになる。僕らは、この時にはもう僕だ、僕は村長が僕らになっていなかったことを知る。僕は見守る。村長の左胸を食い破るように小さな手が出てきた。濁った緑色の、骨ばった、僕の眼球ほどしかない小さな手だ。それは鎌首もたげて血管を引きちぎりながら上半身を晒した。手に見合った小ささだった。そこで僕は彼をラテルラと名付け、全身を村長の体から引きずり出してやったのだ。意外と時間がかかった。気づけば夜になっていた。すでにワームフォールとトントの姿はなく、未だ火がくすぶる森と僕とラテルラが舞い上がる灰を吸っていた。喉が焼けているのがわかる。それは、明確な現実としてわかる。ラテルラはそれ以上に、僕らになれなかったと泣いた。未だ村長の血管を足首や腹に絡ませたまま、俺は置いていかれてしまったのだと泣いていた。

 

トント、トント!彼女だけがたぶん本当に幸福なのだ、とギ・クルシュガンは繰り返した。そうでなければならない、因果が繋がらないのだと。僕の舌だけがそのように言葉を発するので、口の形やあごの動きが伴わず、ラテルラはおそらく聞き取れなかったに違いない。いや、泣くのに必死でこちらを見てもいなかった。ギ・クルシュガンはそれから数日の間、僕の舌先で何事か話した。でも当然僕は彼が次にどのような声量のつもりで、次の単語はどれのつもりで、どのように腹から声を出しているつもりで僕の舌を動かしているのか全く予想できない。ちぐはぐなので僕だけがギ・クルシュガンの言葉をしばらく舌先で聞いていた。ラテルラはその間延々を泣き続けた。置いていかれてしまったと。寂しさだけが膨らんで、とうとう膨張し続け、何もできないままなのだと。ラテルラは長い鼻を砂に半分埋め、膝をおり、突っ伏して泣き続けた。

 

僕の体は、舌を制御下におくことを諦めた。代わりにラテルラの涙を集め続けた。そしてそれを隠しておいた水鉄砲に貯める。ラテルラは寂しいとむせび泣いている。ごろんごろんと灰の上を転がり、また突っ伏して全身みっともなく震わせ、鼻水を垂らしながらおいていかれてしまったと嘆く。何度か、何に、どこに、なぜ、と言葉をかけようとした。しかし僕の舌先にはギ・クルシュガンがいた。ラテルラの体はあまりに細かったので、僕は揺さ振ることもできずに、黙々と彼の涙を集め続けた。ある晩ついに、ギ・クルシュガンはトントが去ったことを認める。そして彼女がどこに向かったのかも。さざ波のような噂に乗って、彼女を追いかけるのだと。

ラテルラの涙はもはや無く、水鉄砲は満タンになり、あたりには砂だけがあった。灰は砂に混じった。森は未だに火がくすぶっている。遠くの方でチロチロと闇夜を照らしている。だけどもはやトントはいないのだ。ならば、森に向かう理由はない。僕は僕らになった。そして僕らは僕に収束し、ラテルラはとうとう追いつくこともできない。

 

「探さなければならない、俺は許されるべきだ、そうだ」

ラテルラは僕のことが見えていないように、浜へと歩き出した。不意に僕は思い出す。そういえばエルジュレが砂の粒を拾って僕に掲げながらこのように得意げに振って見せたことがある。その度に日光を反射して砂つぶはキラキラ光った。

「あのね、これは残骸なの。ワインだとか、テレビの液晶画面とか、叡智だとか。磨かれたものの残骸。でもね、磨かれたからには、美しいの。一度美しくなり、それを継続する手段がシステムとして生まれることはとても稀だよ。だけどシステムになった人がいたの。その人はずっと道路反射鏡を磨き続けていた。潮風が運ぶあらゆる汚れを毎日拭って反射率を保つことで、それが目印になると信じ、最後にはある鳩に感情が引きずられ、自らがぬぐい続けた鏡をモップで粉々に砕いたのね。やがてその鏡の破片すらも迫った波にさらわれた。そんなものの集積がこの浜なのね。だから水が風に混じる。水を飲んでいるような錯覚を抱えたまま、私たちはきっと砂の丘のてっぺんを目指すのよ。電気羊のようにね」

彼女にまた会いたいと思った。トントは二度と会えないだろうけど、エルジュレはきっとそのうち会える気がした。ラテルラは砂浜をまっすぐ進み出した。その背中が倒れそうになったら、肩甲骨のちょうど間に狙いを定めて水鉄砲を撃ってやろう。そのつもりで数メートルあとをなぞるように歩いて行った。

紅茶、夢、テスト

お母さんの目の前でテストをぐちゃぐちゃにしちゃったのは、別に反抗期とか思春期とか、誰しもが通る道だとお膳立てされた理由なんかじゃないのだ。だって私はもう小学六年生なのだ。彼氏だっているし、メイクだってできる。お母さんなんかよりずっと上手に。それでお母さんよりずっとすらっとした足を出して渋谷に友達と出かける。スーパーで商品を選ぶお母さんの雑な買い物よりずっと安い商店街で、ちょっと笑えばニンジンをおまけしてもらえる。ハキハキと笑って、でも周りから浮いたりなんかしない。

成績だって悪くない。ただそう、ちょっと、お母さんが残念そうにしたのが良くなかった。92点の赤ペン、その横の名前欄。笹野ゆり。夢璃が難しくて書けなかったんじゃない。テストで夢璃なんて長い名前書いてたら時間がなくなっちゃうからだ。百合とか優里とか、もうちょっと画数が少なかったら私は普通にちゃんと書いていたんだから。だけどお母さんは名前を見て、眉を少ししかめた。
「ひらがなで書いたのね」
「なに、ちゃんと90点とったじゃん。買ってくれるって約束だったじゃん」
そうね。お母さんは少し黙った。わたしはテストを引っ張り出してそのままのランドセルに散らばったプリントを押し込む。
「じゃあ、そうね、なにが欲しかったんだっけ、ユリちゃん」
お母さんはどうでも良さそうにテストを机に置き、アイロンをかけ始めた。お父さんのつまらない白一色のワイシャツ。シワが伸びていっても、ちっともイタリアのサラリーマンみたいな着こなしにはなれないシャツを、お母さんは懇切丁寧にたたむ。
それでつい、わたしはテストにお母さんが飲んでいた紅茶をぶちまけて、ランドセルをひっつかみ、部屋に飛び込んでしまっただけなのだ。

「ユリちゃん」
お腹が空いた頃、お母さんが扉越しに声をかけてきた。
「ユリちゃん。お夕飯リビングにあるからあっためて食べてね。ママこれから自治会の会議だから、たぶん11時くらいに帰ってくることになると思うの。お風呂は沸かしてるから先に入っててね」
私はいつもと同じようにカズくんの新曲を大音量で部屋に流している。ドアの隙間から音漏れしているからわかるはずだ。お母さんは、私がそれでも話を聞けてるってこと、知っている。
玄関のドアが閉まる音がした。窓から車が出て行ったのを見送って、私はリビングに降りる。お母さんは私を叱らない。昔はよく怒られていたけれど、最近はちゃんと勉強も家事もして言いつけを守っているいい子だから、叱る隙がなくてやきもきしていただろう。だからてっきり、ここぞとばかり、家中を震わして怒鳴るかと思っていた。少し前みたいに。だから私はちゃんとこう言われたらこう言い返そう、筋の通った正論を叩きつけてやろうと、虎視眈々と準備していたのに。
お夕飯は私がすぐ部屋から出てくることを見越していたように、ラップがされていない。湯気が上っている。そのすぐ横に変わらず紅茶色のテストがあった。周りは綺麗に拭き取られている。滲んでよれた赤ペンは乾いてから上書きされていた。92点。綺麗になぞられている。その横には赤マッキーが転がっていた。私は余裕ぶって夕飯を食べきる。
そしてお母さんなら絶対に買えないような可愛いメモ帳をテストの横に添えた。赤ペンを拝借し、一言だけ残す。それで私はちゃんとお風呂に入って宿題をして、お母さんが帰ってくる前に布団に入った。

お人形、部屋、結婚

とても困ったことに、僕がここに居続けたのは君が居たからだったのだ。子供が2人住むにしては狭いワンルーム。正方形の部屋。正方形の壁。正方形の窓。赤いカーペット、水色のカーテン、白いテーブルクロス。椅子は2人分。ベットは大きなものが一つに枕が二つ。コップはスープ用とお水用が一つずつ。君と僕の分。

窓の外は僕らの部屋を何倍も大きくした世界だ。時々見える大きな手や、目ん玉や、肘なんかは僕のものととても良く似ている。たぶん巨人さんがいるのだろうと僕は思っているのだが、案外窓の画面はデジタルであって、嘘なのかもしれない。ただ僕らがお人形の家で暮らしているというのが一番しっくり来る。ちょうど正方形の、赤い屋根が蓋になっているような、チープなお家。
君は寝てたり、起きていたり、窓の向こうをぼんやり見ていたりする。僕は起きてから気が向いたら君に話しかけることにしていた。

君は小さな足をたたんで椅子にしゃがみこみ、両手でコップを抱えている。中には水がたっぷり入っている。僕も真似をして向かいの椅子に体育座りで座り込み、水が並々と揺れる様をぼんやり見ている君にいつも通り声をかける。
「おはよ」
「おはよ、ねえねえ、あんまりここに来ない方がいいよ」
「来るもなにも、僕はここから動いてないよ」
「嘘つき、どこにでも行っちゃう癖に」

君はいつもお面をしている。ごくシンプルなもので、つるんとした卵形の白い面には丸が五つ。
身が二つ、鼻の穴が二つ、口が横に大きくひとつ。そして穴を全然気にしない縦横無尽な黒マッキーで57と書いてある。金髪は君が動くたびにサラサラ揺れる。君は可愛い女の子なんだろうと思う。一般的に広く可愛いと言われるような、金髪で、蒼目で、華奢な外人の女の子。

僕が目を覚ますと毎日テーブルには1日分のご飯がおいてあった。巨大なレタスの葉っぱだとか、一抱えほどもある米粒だとか。粒といっていいのかはわからないのだけど。僕らは2人でそれらをちぎったりもいだりして食べている。水は水道から出る。

君からも水が出る。発作のように泣く。お面と顔の隙間を伝って水が流れ続け、横に大きく空いた穴から嗚咽が漏れ続ける。それは1時間で終わることもあるし、僕が眠るために寝転がって目をつぶっても聞こえ続けることがある。僕は君が泣いているのをずっと応援することにしている。その姿は窓の外の巨人たちが見せる極一般的な日常風景によく似ていた。泣いたり、怒ったり、声の調子を変えたり、歌ったり。君は泣く以外あんまり喋りたがらないし動かないから、僕はそれが君と僕の共通点であると信じ、泣き叫ぶその姿に安心し、干からびない程度には君が泣けるように応援する。巨人と僕の外見がよく似ているように、君と僕の気持ちがよく似ていること。それだけで僕は寂しくないのだ。だって君はいつまでたってもお面を外してくれないのだから。

「私はあなたの57番目だったけど」
君は珍しく僕に話しかける。僕はそれに驚く。君が人に話しかけると言う行為そのものが、普段の僕が君に話しかける行為とリンクする。僕は君に似せるために、彼女の仕草を小手先ながら真似る。
「彼女はあなたの最後なんでしょう。だからあなたはたぶん、もうここにいなくていいんだよ」
「ここにいたらダメ?」
「たぶん」
君は窓の外をいつもの通りに眺めている。女の巨人は笑って子供を送り出すと一転して疲れたように椅子に座り込んでいる。彼女もどこかをぼんやり見つめている。いつも窓の外に巨人は3人。大人の女の人に、子どもが2人。
「私はあなたにいつまでだってここにいて欲しかったのに、すっかり忘れられちゃったもん。だけどあなただって、寂しいこととかあるかもしれないけれど、いつまでだってお人形さんの家にいちゃダメなんだよ」
「じゃ君もここにいちゃダメだよ」
君は小首を傾げた。僕はそれを真似した。
「私は戻ってきてくれると思っていなかったから、ちゃんと準備できなかっただけなんだよ。あなただってもう戻ってこないはずだったでしょう。お母さんがいて、お父さんがいて、妹がいて、あなただけがヒーローだった小さなお家には。そこを出て大きな等身大の家を持つことができたのに」
かわいそうにと君は窓の外を眺めたまま言う。
「あんまり待たせているとそのうち彼女だって、あなたみたいになってしまうのだから」
「子どものように?」
「いいえ、眠るように」
「僕が君のことずっと思い続けることはそんなにダメかなあ」
「自己投影のお人形さんはいつだって待つことができるけれど、彼女はあなたの投影ではないのだから、思わぬおままごとだって起きてしまうものよ」
君はお水を机に置いて、お面に手をかけた。僕はそっくり真似をした。
「一個一個数えて、繰り返して、追いかけて、おままごとをするのはあなたにとってとても優しいことよ。あなたの認識に対応できるものしか数えることはできず、繰り返すことはできないもの」
子どもに見えた君の肌がお面のようにつるりと硬質になり、金髪は安っぽくなり、手足は直線に近づく。僕はこの光景をもう随分昔に見ていた。僕のヒロインだと信じ込んでいた彼女が、いつしか冷たくなり、固くなり、生々しさが消え、想像力だけでは補えないほどお人形さんになってしまう。それはある日不意に訪れた。いつも通り、ドールハウスでお茶をする君が怪物にさらわれるシーンだ。僕が開いた屋根から彼女を連れ出した途端、彼女は不意に現実味を帯びた。急速に僕の現実が形取られる。そして彼女は瞬く間に無機質な工業製品になっていった。

「自己投影のために必要なのは何一つ意味のないお人形さんだったけど、それだけじゃ生きてはいけないの。寂しくて」
天井と壁の隙間に巨人の指が差し込まれ、ゆっくり持ち上げられるのを背景に、君はお面に手をかけたまま喋り続ける。開いた隙間から横一筋に光がこぼれてくる。蛍光灯だ。
僕にはもう君の声が聞こえなくなっていく。それよりも素早く屋根が開かれてしまう。
君はお面に手をかけたまま、無機質に、ゆっくりと人形に戻っていった。

みかん、寝袋、子ども

 祭囃子が曲がり角から漏れ聞こえてきた。踊り子たちがオレンジ色の懐中電灯を振り回しながら、ひらひらと現れる。やがて木枠をいくつも組み合わせて積み上げた、粗雑な神輿が男衆に担がれてぬっそりと出てきた。お蜜柑様のお通りである。
日がとっぷりと暮れ、提灯の明かりがともる。いずれも一般的な赤ちょうちんとは違い、若干丸みのあるオレンジ色のものだ。街路樹や屋台骨に連なって、広場をぐるりと囲んでいた。お蜜柑様ののった神輿はこの小さな街を練り歩き、ようやく提灯の切れ目、広場の入り口に戻ってきたのだった。

賑やかな音色が広場に満ちる。踊り子たちは皆中学生までの子ども達だ。踊りはてんでバラバラで、好きなように神輿の周りをぐるぐる回っている。ただ走っているだけの小さな子もいれば、なにがしかの法則に則ってゆらゆら揺れている子もいる。女の子はオレンジのロングスカートだ。左手に懐中電灯を、右手に透明感のある黄色の布を持ち、ひらひら風に遊ばせている。小学校低学年くらいの子は何が楽しいのか、きゃらきゃら笑いっぱなしだ。男の子達は一様に緑色のTシャツで、茶色の手ぬぐいを両手でピンと張り、ひねったり振り回したりと忙しない。

 

あかりは全身でデタラメにリズムを取るので、俺まで軽く揺すられる。繋いだ手がふらふらとおぼつかない。今にも駆け出しそうな雰囲気に、俺は少し手に力を込めた。まだ小さい。小さくて、すべすべだ。あかりの身長では踊り子達が振り回すライトがちょうど目に当たって痛いだろうに、それでも笑って御輿を追いかけようとする。

ほどほどに御しながら、引っ張られるのに合わせて俺もゆったり歩く。あかりは小走りだが、大股に歩くくらいでちょうどいい。あたりを鷹揚に見回す。自分もあかりも、人混みの流れに逆らわず、前へ前へと歩を進めた。

 

ここら辺はすっかり工業地帯になってしまった。あかりが生まれたのに合わせて帰ってきたけれど、俺が育った蜜柑畑は軒並み住宅街に様変わりしていた。お蜜柑様なんて適当な名前でも、昔の土地を表す言葉が他になかったのだから仕方ない。過疎地域か、田舎か、心のふるさとか、そういったものはすっかり近代化の波に飲まれて消えてしまった。俺たちがお蜜柑様と呼ぶのも、昔からあったなんでもないお祭りを町の観光事業部がキャラクター付けを行うことで活性化しようとしたものだ。お蜜柑祭に名前を改め5回目になるが、そのシンプルで可愛らしいネーミングと会場作りがいいのだと年々来場者は増えているらしい。
この町はあかりと同じ年頃の子供も多い。その子たちがこぞって踊り、町中を練り歩く。蜜柑畑のあった工場の横を、よく遊んでいた空き地が潰されたショッピングモールのそばを歩いていく。みかんが転がっていた俺の祖父母の庭は、国道が通るとかでなくなってしまった。その国道を通って俺たち家族は帰ってきた。

 

お蜜柑様の神輿が櫓のすぐ手前にやってくる。櫓にはみかんが鈴なりに飾ってある。いずれも生のみかんではない。第一回目は実際にとれたてのみかんを飾っていたが、予算を圧迫するということでプラスチックのみかんになった。毎年倉庫からお蜜柑祭のために引っ張り出して使う。
「祭のための蜜柑じゃあ、お蜜柑様も浮かばれんやろなあ」
お蜜柑祭実行委員会の仕事でたまたま一緒になった爺さんがいう。その割に軽い口調だった。来年は孫が生まれるらしい。だから孫を連れてお蜜柑祭に来るのだという。それまでになるべく楽しそうな雰囲気の祭にしておいて、爺さんすごいと褒められたいらしい。俺もあかりを連れて祭に来るたびに思うので、頷くにとどめた。

 

「お蜜柑様が御目通りなさいますので、皆々様、どうぞ、ぞうぞご注目くださいませ!ではではどうぞ、はい、それはもう、ええ、ええと、開きます拍子に併せまして、どうぞ、拍手でお出迎えくださいませ」
踊り子らはすでに後方へはけており、見上げた神輿には町長がマイクを握って立っていた。町長の禿げた頭もオレンジの照明で光っている。あかりが耳打ちして教えてくれた。
「お蜜柑様が宿っているんだよ」
俺は直視できなくなる。あかりは「禿げてても笑っちゃダメなんだよ」と怒る。
神輿の中心に据えられるのは、みかんの葉で埋めるように飾り付けされた寝袋だ。言うまでもなく葉はプラスチックである。しかし櫓に積まれ、オレンジに照らされて、人々が取り憑かれたように見上げるそれは神様の詰まった寝袋になる。

あかりもゆらゆらと揺れながら今か今かと待っている。
「ええ、では、はい、それでは、お蜜柑様のおなーりー」
町長が神輿に積んである大きな寝袋のチャックを勢い良く下げた。
「来た!」
あかりが両手を振り上げて、頭上でパチパチ叩く。周りの子どもは皆そうだ。
寝袋には溢れるほど蜜柑が詰まっている。なんとなく人型に敷き詰められた蜜柑だ。腕や足の隙間には葉で区切りがついている。それらはプラスチックで中に電飾が入っており、うっすら黄色に光る。頭の部分はひときわ大きい。おそらく俺が腕を回してちょうどくらいではないだろうか。重たげな頭をゆらゆら揺らし、お蜜柑様は俺たちを睥睨する。
「お蜜柑様、お蜜柑様!」
あかりがはしゃぐ。はしゃいで、神輿に駆け出した。
「あかり」
俺が立ち上がるよりずっと早い。あっという間にあかりは神輿の下へ潜り込んでしまった。俺は慌ててしゃがみこむ。先に櫓の骨が見える。あかりがいない。
「あかり」
もしや櫓の裏まで回ってしまったのだろうか。
「本日は皆々様お集まりいただきまして、ええ、お蜜柑様もお喜びでしょう、ええ」
人混みを抜ぬい、櫓の裏まで回り込む。俺の腰ほどしかない頭を探す。今日はぼんぼんのシュシュをつけて来た。出がけに妻が目印になるよと高い一つ結びにくくっていた。
「あかり」
屋台に気を取られたのかもしれなかった。わらわらとどこからか踊り子たちが戻ってくる。オレンジのライトを振り回すせいで視界がおぼつかない。いよいよ本部にでも行って、アナウンスしてもらったほうがいいかもしれない。小さな町のくせに、いつの間にこんな人が増えたのだろう。
「パパ」
「あかり」
その時俺の袖口をひく手があった。ぼんぼんのシュシュ、ワンピース。あかりだ。
頭はちょうどひと抱えほどの、プラスチックのみかん。
とっさにしゃがみ込んだ俺を睥睨している。内側からオレンジの照明で照らされている。
「あかり」
俺があかりの手を握ると、ちゃんと教えた通りに握り返してくれた。携帯の点滅が電話の着信を教えている。あかりのつるりとした頭の、おそらく耳だろうあたりに携帯を当ててやる。
「ママがそろそろ帰っておいでだって」
「そっか。満足した?もう勝手に走り出したらダメだぞ。怖いおじさんがいるからね」
「禿げの?」
「禿げの」
あかりは嬉しそうにゆらゆらと手を降りながら、歌を口ずさんで歩く。

あかりが一方的にまくし立てるあれこれに頷く。広場を抜けて、住宅街の小道を抜けていく。人通りが少なくなって来た。電柱と電柱を繋ぐように蜜柑型の提灯が吊るされている。今日お祭りに来られなかった家庭でも、窓辺にオレンジ色のランプを灯している。


妻があかりを風呂に入れてやり、俺はその間にのんびりコーヒーをすする。あかりがおそらく口だろう部分で俺の額にキスをする。俺もお返しに抱きしめてやる。妻がお代わりのインスタントコーヒーをいれてくれる。二人であかりのプラスチックでつるりとした寝顔を確認した。

「あかりがはしゃいでしまって」

「毎年楽しみにしてるもの」

ソファにくつろぎながら祭の出来事を妻に伝え、夜は更けて行く。

バスタオル、ポテトサラダ、フォーク

今日のご飯はなんだっけと、さおりが不思議そうに言う。僕が壁に貼ってあるカレンダーを指差せば、彼女はつまらなさそうにそっぽを向いた。僕が大学の教授から譲ってもらった、製薬会社のモノクロカレンダー。4月3日を囲んだ雑な花丸がひどく場違いだ。

さおりは今日で32なる。盛大に誕生日を祝おうかとケーキを予約していたのに、昨日なんでもない顔で「ケーキなんか予約しないでね、嫌味だから」と釘を刺された。わかっているなんて僕も当然の顔をして頷いた。ケーキをキャンセルできるか電話してみたのだが、流石に店も閉まっており、深夜にリビングで携帯を見つめる僕を放置してさおりは寝てしまった。結局僕は予定通り、早朝から2100円出していちごのホールケーキを受けとる羽目になった。
彼女と僕のぶん、半月型に切り分けたホールケーキの半分を昼飯に食べた。

さおりの分は大学の後輩にあげた。彼は呆れた顔で紙袋を受け取り「たまには怒ってもいいんじゃないすかね、俺はありがたいですけど」とだけ言った。なかはタッパに適当に詰められたケーキだ。それなりに見栄えは悪かったはずなのだが、後輩は巨大パフェのようにして友人と食べたらしい。インスタグラムでキラキラしく加工されたそれはさおりのものだったんだけど、とか思いながらソファに寝そべって、いいねを送った。

今日はさおりが生まれた日だ。僕にはそれが今だに信じられない。さおりは初めからさおりという存在としてこの世にあったのではないだろうか。気ままになんとなく生まれてみようかな、それで人間になってみようかな、30くらいの女がいいな。そんな風に予兆なく街に現れたっておかしくないとすら思うのは、いくらなんでも、彼女を人間から外しすぎているだろうか。

さおりが帰ってくるまでにすることはたくさんある。洗濯ものを取り込んだり、ベットを整えたり、食器を洗ったり。さおりはバスタオルが少し崩れて棚に収まっているだけで夜中ぶすくれてしまう。だからといって彼女のご機嫌をとったことはないし、そんな日は僕も大概疲れていてすぐに寝てしまう。どうせ翌朝にはけろっとした顔でお互い食卓を囲んでいるのだ。そしてさおりは貯めていたドラマがいかに素晴らしく、それを観れなかった僕がいかに悲しい存在か、隈をこさえた笑顔で語る。何時間寝たの、と聞く。「睡眠は心を豊かにはしないので、時間をはからなくて良いのでーす。楽しいことはつい長くしてしまうから区切らなきゃいけないけど、睡眠は勝手に起きてしまうもの。まあ、そうね、たぶん5時間くらい観てたかな」とさおりはしたり顔で言う。
そして玄関口でキスをする。触れるだけに留めて、僕は彼女の隈を撫でる。さおりはくすぐったそうに笑う。ナチュラルハイを朝まで引きずったさおりを置いて、僕は大学へ向かう。

彼女はあんまり料理が得意でない。でも僕だって一般的な男子大学生の標本のような人間だ。「きっとたぶん修也君のような大学生諸君は、みんな料理ができないに違いない」というのがさおりの持論だった。僕に関してそれは正しい。体育サークルに入っているので芋を潰したりするのはできると言えば、さおりはケラケラ笑って、翌日じゃがいもを一箱持ってきた。「農家やってる実家から送られてきたの」と彼女は弁明したが、箱の側面には北海道産と記してあった。彼女は広島出身だ。

その時のジャガイモが、まだ4つ残っている。そろそろ目が出てきたので処分したい。僕はよくゴリラと評される上腕二頭筋を全力で駆使し、一瞬でホクホクのじゃがいもをミンチジャガイモにした。ついでに冷蔵庫の隅っこで忘れられていたきゅうりが一本だけあったので、適当に輪切りにして混ぜる。今日は彼女の誕生日だ。僕はフォークとナイフとスプーンをピカピカに磨いて、高級レストランのようにきっちり並べた。ナプキンはなかったので、さおりの席には洗ったばかりのレースのハンカチをそれらしく添えた。僕はとりあえず台拭きを添えてみた。

テーブルの真ん中に、ジャガイモときゅうりと塩コショウのみが適当に混ざったボウルをすえる。その横にマヨネーズとケチャップを行儀よく並べた。部屋の照明を絞り、パソコンから少しおしゃれなジャズを流してみる。ジャズ、おしゃれ、と検索してトップに出てきたやつだ。きっと世間ではこういうジャズがおしゃれなのだろう。

そろそろ彼女が帰ってくる。たぶんすごく怒るだろう。怒髪天をつく、を全身で表現してなんだこの音楽はとふてくされるに違いない。それからきっと「修也君みたいな大学生はこういう音楽が好きだったんだね」と寂しそうに言うだろう。だけどそこで、僕はマッシュポテトを差し出し、彼女にケチャップかマヨネーズか迫るのだ。スタンダードにポテトサラダにしてしまうか、ケチャップにするかなんて。さおりは笑うだろうか。笑って僕に32歳を祝わせてくれるだろうか。
僕は玄関に立ち、携帯片手にさおりからの連絡を待つ。出会い一番彼女にキスをするために。

むかしむかし

とても困ったことに、僕がここに居続けたのは君が居たからだったのだ。子供が2人住むにしては狭いワンルーム。正方形の部屋。正方形の壁。正方形の窓。赤いカーペット、水色のカーテン、白いテーブルクロス。椅子は2人分。ベットは大きなものが一つに枕が二つ。コップはスープ用とお水用が一つずつ。君と僕の分。

窓の外は僕らの部屋を何倍も大きくした世界だ。時々見える大きな手や、目ん玉や、肘なんかは僕のものととても良く似ている。たぶん巨人さんがいるのだろうと僕は思っているのだが、案外窓の画面はデジタルであって、嘘なのかもしれない。ただ僕らがお人形の家で暮らしているというのが一番しっくり来る。ちょうど正方形の、赤い屋根が蓋になっているような、チープなお家。
君は寝てたり、起きていたり、窓の向こうをぼんやり見ていたりする。僕は起きてから気が向いたら君に話しかけることにしていた。

君は小さな足をたたんで椅子にしゃがみこみ、両手でコップを抱えている。中には水がたっぷり入っている。僕も真似をして向かいの椅子に体育座りで座り込み、水が並々と揺れる様をぼんやり見ている君にいつも通り声をかける。
「おはよ」
「おはよ、ねえねえ、あんまりここに来ない方がいいよ」
「来るもなにも、僕はここから動いてないよ」
「嘘つき、どこにでも行っちゃう癖に」

君はいつもお面をしている。ごくシンプルなもので、つるんとした卵形の白い面には丸が五つ。
身が二つ、鼻の穴が二つ、口が横に大きくひとつ。そして穴を全然気にしない縦横無尽な黒マッキーで57と書いてある。金髪は君が動くたびにサラサラ揺れる。君は可愛い女の子なんだろうと思う。一般的に広く可愛いと言われるような、金髪で、蒼目で、華奢な外人の女の子。

僕が目を覚ますと毎日テーブルには1日分のご飯がおいてあった。巨大なレタスの葉っぱだとか、一抱えほどもある米粒だとか。粒といっていいのかはわからないのだけど。僕らは2人でそれらをちぎったりもいだりして食べている。水は水道から出る。

君からも水が出る。発作のように泣く。お面と顔の隙間を伝って水が流れ続け、横に大きく空いた穴から嗚咽が漏れ続ける。それは1時間で終わることもあるし、僕が眠るために寝転がって目をつぶっても聞こえ続けることがある。僕は君が泣いているのをずっと応援することにしている。その姿は窓の外の巨人たちが見せる極一般的な日常風景によく似ていた。泣いたり、怒ったり、声の調子を変えたり、歌ったり。君は泣く以外あんまり喋りたがらないし動かないから、僕はそれが君と僕の共通点であると信じ、泣き叫ぶその姿に安心し、干からびない程度には君が泣けるように応援する。巨人と僕の外見がよく似ているように、君と僕の気持ちがよく似ていること。それだけで僕は寂しくないのだ。だって君はいつまでたってもお面を外してくれないのだから。

「私はあなたの57番目だったけど」
君は珍しく僕に話しかける。僕はそれに驚く。君が人に話しかけると言う行為そのものが、普段の僕が君に話しかける行為とリンクする。僕は君に似せるために、彼女の仕草を小手先ながら真似る。
「彼女はあなたの最後なんでしょう。だからあなたはたぶん、もうここにいなくていいんだよ」
「ここにいたらダメ?」
「たぶん」
君は窓の外をいつもの通りに眺めている。女の巨人は笑って子供を送り出すと一転して疲れたように椅子に座り込んでいる。彼女もどこかをぼんやり見つめている。いつも窓の外に巨人は3人。大人の女の人に、子どもが2人。
「私はあなたにいつまでだってここにいて欲しかったのに、すっかり忘れられちゃったもん。だけどあなただって、寂しいこととかあるかもしれないけれど、いつまでだってお人形さんの家にいちゃダメなんだよ」
「じゃ君もここにいちゃダメだよ」
君は小首を傾げた。僕はそれを真似した。
「私は戻ってきてくれると思っていなかったから、ちゃんと準備できなかっただけなんだよ。あなただってもう戻ってこないはずだったでしょう。お母さんがいて、お父さんがいて、妹がいて、あなただけがヒーローだった小さなお家には。そこを出て大きな等身大の家を持つことができたのに」
かわいそうにと君は窓の外を眺めたまま言う。
「あんまり待たせているとそのうち彼女だって、あなたみたいになってしまうのだから」
「子どものように?」
「いいえ、眠るように」
「僕が君のことずっと思い続けることはそんなにダメかなあ」
「自己投影のお人形さんはいつだって待つことができるけれど、彼女はあなたの投影ではないのだから、思わぬおままごとだって起きてしまうものよ」
君はお水を机に置いて、お面に手をかけた。僕はそっくり真似をした。
「一個一個数えて、繰り返して、追いかけて、おままごとをするのはあなたにとってとても優しいことよ。あなたの認識に対応できるものしか数えることはできず、繰り返すことはできないもの」
子どもに見えた君の肌がお面のようにつるりと硬質になり、金髪は安っぽくなり、手足は直線に近づく。僕はこの光景をもう随分昔に見ていた。僕のヒロインだと信じ込んでいた彼女が、いつしか冷たくなり、固くなり、生々しさが消え、想像力だけでは補えないほどお人形さんになってしまう。それはある日不意に訪れた。いつも通り、ドールハウスでお茶をする君が怪物にさらわれるシーンだ。僕が開いた屋根から彼女を連れ出した途端、彼女は不意に現実味を帯びた。急速に僕の現実が形取られる。そして彼女は瞬く間に無機質な工業製品になっていった。

「自己投影のために必要なのは何一つ意味のないお人形さんだったけど、それだけじゃ生きてはいけないの。寂しくて」
天井と壁の隙間に巨人の指が差し込まれ、ゆっくり持ち上げられるのを背景に、君はお面に手をかけたまま喋り続ける。開いた隙間から横一筋に光がこぼれてくる。蛍光灯だ。
僕にはもう君の声が聞こえなくなっていく。それよりも素早く屋根が開かれてしまう。
君はお面に手をかけたまま、無機質に、ゆっくりと人形に戻っていった。