こざこざるつぼ

こざこざしたものを、るつぼに入れてくよ

11月6日 体液

耳も見えないほど抱きついて寂しさが紛れるか。だけどトントといくらひっつきあったところで、皮膚と皮膚がピタリと、横並びの頭になろうと、だからこそ視線が合わないことがまた寂しくてどうしようもないのだ。トント、大切な娘。愛すべき一般市民。平等に支配され、敵愾心をすて、それなりの憐れみをもち、潔い、賢い子ども。

世に溢れる家族愛を歌いながら隣家の窓を叩き割り、ろうそくの火だけ消して帰るような愛されてきた子ども。その細い襟足も、やや赤らんだ指先も、薄い耳たぶだって僕にはどうすることもできない。なぜなら彼女は全てを持っている。

 

ワームヲォールは言った。

「1階から5階まで階段を往復するんだ。両手いっぱいで支えた食器がカチャカチャうるさい。三角筋が取れそうだけど、落ちたら次に降る時、拾えばいいだけだよ。

黄泉の国は水が大変美しいから。それと比べてとてもここでは洗えないと、5階の食器も3階の食器も、いつしかみんな1階で洗うようになってしまった。僕は構わないさ。そうとも、僕は途中で抜けてしまうから。次の人に心当たりはあるからね。

5階にいても慌ただしい。半分溶けたアイスで作ったパフェに、ケチャップで汚れたお皿のオムライス。全部誰かが食べてくれるさ。そのために僕は1階まで走ったのだから。間の階数なんて大した意味はないよ。

僕はそろそろ上昇気流に乗って水面に出るらしい。暖かくなるには暑すぎて、涼むには寒すぎる。僕はいつだってそうだ。彼女が僕を海に突き落としたのは純然たる善意だと知っている。だからトント、トント!その美しいくるぶし。昔から変わらないさ。時折どうしようもないほどに泣こうと決めて、2つぶ程度泣いてしまうくらいでちょうどいいんだ。

ワームホール、ワームフォール、僕の兄弟たち!僕はトントのくれたマフラーをよすがに、あと30分は生きていける。君らもそうだろう。

ワームホール、トントは君の幸せを望んでいるんだ。ただ善良に。総数によって下されたままに。それだけの余裕が彼女にはあるんだと、僕は勝手に思っているよ。余白のことじゃない。トントは愛すべき全てに振り切れたメトロノームのように、極端に、平等に、一定のリズムで、そして未練なく美しい。トント、トント!健康的な夕方に、僕らはまた会えるかもしれない。

その時はどうぞ、彼女のままでいてくれ。僕はトントのために、トントがあるがままでいるために、マフラーだけがいいんだ。ああ、僕はトントなんか知らないさ。そうとも。知らないのだ。ただマフラーが僕のものではないということだけが、トントがいるかもしれない可能性を僕に残している。

太平洋で沈んで、北極海でまた浮上するだろう。僕は海流を生み出し、ゆりかごのように揺れるお豆腐を味わいながら、ナイフで塩を切り刻む。最後に細切れのスープを食べる。すると僕は、ちゃんと泣こうと決められるのだ。心に決めて、キュッと下まぶたに力が入る。それはすぐに海水と混じって、いつかトントの喉に届くのだろう。僕の残骸と言えるもの全て、物理的にあらゆるものと混じり混じって薄まったとしても。僕だった事実は覆らず、どれだけ薄くなろうとも、僕の体液だ。水をどれだけ吸おうとマフラーが僕の首元を涼やかに温めるのとそれはよく似ている。ワームホール、ワームフォール、君らに伝えられることなんて。僕だけが知っていればいいことばかりで、あとは事務連絡くらいだ」

ギ・クルシュガンは見つけられないだろうね。

ワームヲォールは一息にそれだけ言って、また深く深く空気を吸い込んだ。キンキンの闇夜だ。音だけが波のありかを教える夜だ。ベタベタの黒い海で、ランプのかすかな灯りだけが頼りだ。マフラーはぐるぐるに彼に巻きついているはず。端っこだけゆらゆら波に揺れているのが見える。僕はボートから顔を出し、マフラーにキスをした。

ワームヲォールは深く深く息を吸い込むので、僕の周りの酸素まで持って行かれてしまう。頭の頂点に磁石を貼り付けられ、月の方から引っ張るようなめまいを覚えた。酸欠だ。ワームヲォールは僕のキスに気づいていないだろう。だけど僕が何らかの意味を残したのだと、彼は知っているだろう。それはワームヲォールの体液が、海水で薄まり、ろ過され、トントの喉に届くのとよく似ている。「そうとも。」細かなことは僕だけ知っていればいい。それ以外なんて事務連絡くらいだ。

いよいよ息ができなくなった。ワームヲォールのいるあたりから海の水はゆっくり氷付き、パキパキとひび割れていく。表面だけの些細な変化。そのくせ、空気は暑く淀んでいく。質量が増していく。僕はその全てが美しいと、知っている。

ワームヲォールも僕に何か残すだろうか。彼だけが知っていればいいなにかを。例えば船底にキスを、例えばひび割れた氷のひとかけらを、例えばいまボートに跳ねた海水に混じる体液を。僕がこのことをすっかり忘れた健康的な夕方に、急に降り出す夕立の中かもしれず、「雨だ」なんて当たり前のことを確かめるために僕は彼の体液だった事実を持つ雨を、ひとしずく舐めるかもしれなかった。それくらいでちょうどいい。

 

やがて、氷は空気の質量に耐えきれず溶けていく。空気は氷に冷やされ流れ始める。ボートは氷が溶けたことで波に揺らぎ始め、僕はまたどこにでも行けるようになった。そこで岸にワームホールを置き去りにしたまま、ボートを漕ぎ出した。滑るように海流に乗る。僕はどこだって行けるだろう。ワームヲォールが生み出した海水に乗り、トントが振りまく善意の断片を頭に描きながら、ワームホールを忘れるだろう。そしていつか、トントのこともわからなくなる。

だけど僕にはボートがあった。ボートを漕ぐオールの重みを感じている。その木の感触と、酸素のキンとした冷たさと、波音と、押しやる海水の重さがある。服もあれば、体があり、細胞があり、過去があった。だからもう二度と完璧に戻れない時間を美化して生きていくことができる。何十年も、何百年も。忘れてしまうことだって。

いよいよ僕も泣こうと決めた。彼が溶かした体液をこれ以上薄めるのは忍びないので、僕は湿っぽい息を吐き出した。それは彼の生み出した重たい熱と混じって、混じって、ワームホールに届く。いつか、遠い未来にワームホールとトントが互いしか得られないような状況を望んでおく。それが彼と彼女への手向けになるだろう。

かわいそうなギ・クルシュガン。きっと間に合わないだろうね。