こざこざるつぼ

こざこざしたものを、るつぼに入れてくよ

10月26日 シーツ交換

先週の誕生日を乗り切って、ついにトントが話をすることに決めたらしかった。

ギ・クルシュガンへの手向けになるかもしれないと、そう言ったのが良かったのかもしれない。彼女は柔らかな手のひらでキンと冷えたコップを包み、じっと座っている。水滴が彼女のワンピースに落ちた。

まるで季節外れな光景だ。彼女の周辺だけが、私の周囲と隔絶されているように思う。私が隔絶されているのか、彼女が夏の終わりに取り残されているのかはわからない。ただ私と彼女は、現在持ちうる感情、肉体、言語、季節すら共有できていない。暖炉の陰影すらゆらゆらと意味のない夏の夜の怪しさのように感じる。

 

予定帳に今日は何にもない日だった。何か始めるにしろ積むにしろうってつけの日。そこで私はこうやって文をだらだらと打っているわけだ。特別なことが何もないと言うだけで、大学の講義もサークルもやらなきゃいけない課題も文化祭の準備もある。

大事なのは、私が特別な日だと感じるようなことが予定されていないこと。

 

ベットシーツの交換が最終日だった。

学生宿舎は月に三回、およそ週に一回、布団交換所でシーツを綺麗なものと取り替えてくれる。三日ほど猶予が設けられており、いずれかの日時に持っていけば良い。入居したての頃は交換日が待ち遠しかった。じりじりとカレンダーを確認した。

実家にいる頃は毎日ちゃんとお風呂に入ってから、リビングでくつろぎ、最後にお布団に潜り込んでいたのだ。一人暮らしになって、私はすぐベットを万年床と決めてかかった。たった六畳のこの部屋に、ソファアのスペースも、お金も、共有する人もいない。疲れ果てて帰った夜はすぐに倒れこむ。あるいは誰と会うわけでもない夕方に、布団にくるまってネットで時間をつぶす。

当然ながら一週間も経てば、虫か菌だかが肌でビリビリと感じられる程度に汚れてしまう。居心地が悪くなる。ちょうどシーツ交換の日なのだから、とすぐ汚れたシーツを引っぺがして持っていくのだ。

ところが最近になって、自堕落が板についてしまった。夏休みの怒涛の日々がそうさせたのかは知らないけれど。とかく、何やらかゆいなあと、カレンダーを見たらシーツ交換受付の最終日だったわけだ。

そこでシーツを引っぺがし、一度カーペットに座り込んでケータイ遊び。

サークルの直前に、予備動作もなしに立ち上がって、先ほど畳んでいたシーツをひっつかむ。布団交換所に穏やかな顔をして乗り込む。そして私は、レモンほど素晴らしくも涼やかでもない、若干生暖かいのではと思うほど生活感で汚したシーツを取り替えてもらうのだ。大慌てで部屋に戻ってきてベットの上に美しくパリッとたたまれたシーツを放り投げる。そして鍵もろくに閉めずに飛び出して行く。

 

お日様に干しているわけがない、無機質な清潔さを保ったシーツが存外お気に入りだ。誰が私に構うわけでもない。構うこととお世話をされることには明確な線引きがあって、私はそこでいつも、構って欲しかったり、お世話されたかったり、ふらふら気ままに揺れている。交換所の方と、週に一回は顔をあわせるはずなのにいつまでも知らない人のままだ。お世話されたいだけの時に、決まり切ったルーチンで新しいものと取り替えてくれる。お世話をしてくれる。それがすごく、いいとまではいかないけど、そう、悪くない、んだと、思う。たぶん。

 

シーツの上に座って、トントは足をふらふら揺らした。彼女の足元には重力がないように。磁石が対局で弾かれるより穏やかに、でも海の波よりはずっとはげしく。