こざこざるつぼ

こざこざしたものを、るつぼに入れてくよ

銀の匙

中勘助の「銀の匙」は作者が生まれてから眼に映る鮮やかな世界を丁寧に追いかけたもので、自伝に近い。

病弱なことと生来の気質、様々な要因によって作者は普通の子らと同様の幼少期は送らなかったかもしれない。移り変わる季節をみせる植物や、そこに絡みつく人の営み。

出会っては別れ、移ろいで行く関係性の中で育まれていく人間への価値観。

当たり前な美しいものに対する子供のような驚嘆を抱えたまま、美しい世界を拾い上げて成長していく様に胸打たれる。

 

何一つとして特別なことはない。己を憐れみも褒めも見下しもしない。巻末解説から言葉を借りれば「水平な視点」が一貫して作中に貫かれているからこそ、眼に映る景色を丁寧に丁寧に写し取ったような描写や、そこに注がれる作者の純粋な驚嘆にみずみずしさを得る。

 

育ての親であるおばさんから始まって女性が立ち代り現れるが、いずれも一人の人間として装飾なしに捕らえられているがために、明治にありがちな女性の朧な姿はない。一切の引っ掛かりなしに私は彼女たちを、実際に網膜にうつし言葉を交わし、翻弄されたように錯覚すらした。時代変わろうと変わらない人間を見つめるある種の叙情は、道徳という先入観にとらわれないのびのびとした思考を感じさせる。

 

それは戦争、男はかくあるべきという兄の主張、学校で教わる孝行への懐疑にまで及ぶ。斜に構え偉ぶった言葉ならば、すぐにうんざりしていただろう。あくまで当たり前に事実を受け止め、なぜかを考え、なっとくできないから問いかける子供のような素朴さがある。その目は文を透かして私までじっと見つめる。

繊細で柔らかな心が、筋の通った論理と確信でもって「本当か」伺う。

 

崖の上で作者が夕日を見つめながらこの子供のような心を保ち続けなければならないと思った鮮明さ。くっきり浮かび上がる一人の人間の姿は、景色の中で柔らかな陽の光や波音の中で自然の中で息をするように馴染んでいく。

そしてなお、あの子どもがじっと見つめ純粋に問いを投げかける。

気づかせようとする意図も何もない。ここに気づいたが、君はどうか。17の青年が捉える美しい世界の色に、その彩りを無くした私の凝り固まった考えに、冷え冷えとしただけだ。

 

むすかしい言葉はないのになぜあんなに鮮明なんだろう。難しくないからか。知っていた風景のような気すらする。自然豊かな光景に懐かしさはない。私は車が往来を走る平成に生まれていて、病に強く、はしゃいで過ごした。ただその風景を知っている。一つ一つのひらひらとした柔らかで包むような様を、知っていたように思う。ずっと小さな頃に。それを写し取って言葉に載せることの難しさは置いてきた感性の中でたぶん埋もれてしまった。

 

明治45年に漱石へと送られ、大正2年に朝日新聞にて連載が開始されたそうだ。

細やかに描かれる世界の美しさに、なぜか「悪童日記」を思い返した。かの双子もそうだ。平らな思考で、当たり前でもって世界を捉える。偏った激情は存在しない。

どこまでも純真な子供の目に、早熟な理性でもって、じっと見つめてくる。

たぶん私はその眼に弱い。