こざこざるつぼ

こざこざしたものを、るつぼに入れてくよ

ラテルラとシンバルの森

「あまりに軽率が過ぎるというものさ!」

大仰に手を振りかざし、ラテルラは笑った。しかして、僕には水鉄砲が握られている。いかようにもできる。ラテルラだってそれをわかっているので、特に僕が反応しないことに対しても何も言わない。ラテルラは小さくて骨の浮き出た足で、焼けるような砂浜を歩いて行く。

 

ここにトントはいない。いなくなってしまったと誰よりもトントを望んだクルシュガンが言ったのだ。彼は自分のことを旅人のように言っていたけれど、その実トントからいつまでも離れられないだけの亡霊だ。誰と話しても何を食べても肺に吸い込む空気の濃度すらきっと彼はわかっていなかった。わからないことだけがトントを求めるに足る資格だとすら考えていたように思う。それも思考の果てにあったのか疑わしい。

とにかく彼らは飛行船に乗りやってきた。僕らの住む偏屈の森に。森の外側は砂漠である。そこに飛行船は不時着というにはあまりに計算されきった故障具合で、突然現れた。砂漠とはいうが、それはどこか水の気配を帯びている。砂浜を遠くまで引き伸ばしたような。あるいは海底に足をつけながらも、水だけが全て蒸発してなくなった直後のような。湿っぽさが風に滲んでいたのに砂しかないから海とは呼べないのだ。

砂は白く、粒状で、あまり風に乗って飛ばない。時々光に反射する。それをトントは道路反射鏡を磨くおじさんの成果なのよ、私は信じていないけれどと言う。そんな風にして、彼女はごく当たり前に僕らの村に馴染み、そしてすぐに空気になった。

 

思い出すたび、彼女の存在だけが浮き彫りになって行く。けれど僕らは彼女が何を言って何を行なったのか明確に口にすることはできなかった。もしかしたらその場にいた人はできるのかもしれないが、時間が経つにつれ、その場から本人すら隔絶し、過去のことになって行く。過去になる以上、ますます輪郭は曖昧になり、やがてトント、それだけが残る。道路反射鏡の話すら隣に立つワームフォールが繰り返すように呟いたから記憶に残っているに過ぎない。ワームフォールは本当に喋ったのだろうか。僕が無理にトントに僕でも認知できるかたちを与えようとして理由ずけしているにすぎないのかも。声も、吐息の温度も、肌の質感も、髪の細さも、何もかもが楼閣の向こうに滲んで、思い出す作業すら消えて行く。そして二度とは戻ってこないのだ。トント。トント、それだけがこびりついている。ああ、彼女のくるぶしの美しかったこと。どうだろう。ギ・クルシュガンがそんな風に言っていたから僕はトントのくるぶしが美しく、何者にも代えがたいほどに不安定で、なぜあのくるぶしがトントを支えられていたのかわからないほどに華奢だと思い込んでいるんだろうか。

 

僕らは彼らを迎え入れた。歓迎も忌避もなく、朝に出かけた子供が夕飯時に帰ってくるように迎えた。特に誰の家族でもなく、他人でもなかった。僕らに対し全てが平等だったのだ。ワームフォールは一切の関与をせず、トントは均一な興味と愛情を持って僕らと接したように思う。そして僕らも彼らに特出した感情は持ち得なかった。ギ・クルシュガンは気が付いているのだろうか。あの扁平な愛情がトントだということに。きっと知っていた。だけど気がついてはいなかった。彼のことは彼以外のみんなが、会えばすぐ理解できる。少なくとも僕らはそうだ。

 

ワームフォールは会話をしない。ただ彼女が村に火を放ち、僕らの命より大事なシンバルを粉々に砕いた。彼女は善心による。そして僕らはそれに感謝すらした。あの美しい炎。木々に飛び散る火の粉の不確かさ。照り返る光に反射する砂。トントはハンマーで23回シンバルを殴った。だけどシンバルは歪み、金属になっただけだった。僕らは息を飲んでその光景を見守った。その横で家が崩れ、逃げ遅れたおじいさんすら、彼女がシンバルを殴る澄んだ音に耳をすませていた。鳥の声もなく、ただ無機質に有機物が燃えて行く音と、断絶した彼女の振るうハンマーの重力だけが確かだった。誰もが泣いていた。ありがとう、と子を抱いた母親が言う。

さざ波のようにありがとうは広がった。それでも音にはならなかった。なぜなら音は伝達されるものであり、あの時僕らは一つの塊になっていて、心が溢れたからと言って伝達されるべき対象はなかったからだ。僕という個人が心のうちで、考えるより先に、脊髄の脳幹から細胞液が滲むようにごく自然に、胸中で感謝の念を抱くのと変わらないのだ。なぜならあの時、僕らは一つの生き物だったのだから。

そこでワームフォールが歪になったシンバルを撫でた。歓迎されるべき行為だった。トントはワームフォールの手ごとシンバルを叩く。大上段から振りかぶったハンマーは今度は一撃でシンバルを砕いた。

 

灰塵は砂漠に降り積もった。そこで、村長が不意にしぼんだ。比喩表現ではない。心臓部に向けて収縮するように皺がよった。たちまち痩せた手は骨になり、目は落ちくぼみ、薄っぺらの皮膚だけになる。僕らは、この時にはもう僕だ、僕は村長が僕らになっていなかったことを知る。僕は見守る。村長の左胸を食い破るように小さな手が出てきた。濁った緑色の、骨ばった、僕の眼球ほどしかない小さな手だ。それは鎌首もたげて血管を引きちぎりながら上半身を晒した。手に見合った小ささだった。そこで僕は彼をラテルラと名付け、全身を村長の体から引きずり出してやったのだ。意外と時間がかかった。気づけば夜になっていた。すでにワームフォールとトントの姿はなく、未だ火がくすぶる森と僕とラテルラが舞い上がる灰を吸っていた。喉が焼けているのがわかる。それは、明確な現実としてわかる。ラテルラはそれ以上に、僕らになれなかったと泣いた。未だ村長の血管を足首や腹に絡ませたまま、俺は置いていかれてしまったのだと泣いていた。

 

トント、トント!彼女だけがたぶん本当に幸福なのだ、とギ・クルシュガンは繰り返した。そうでなければならない、因果が繋がらないのだと。僕の舌だけがそのように言葉を発するので、口の形やあごの動きが伴わず、ラテルラはおそらく聞き取れなかったに違いない。いや、泣くのに必死でこちらを見てもいなかった。ギ・クルシュガンはそれから数日の間、僕の舌先で何事か話した。でも当然僕は彼が次にどのような声量のつもりで、次の単語はどれのつもりで、どのように腹から声を出しているつもりで僕の舌を動かしているのか全く予想できない。ちぐはぐなので僕だけがギ・クルシュガンの言葉をしばらく舌先で聞いていた。ラテルラはその間延々を泣き続けた。置いていかれてしまったと。寂しさだけが膨らんで、とうとう膨張し続け、何もできないままなのだと。ラテルラは長い鼻を砂に半分埋め、膝をおり、突っ伏して泣き続けた。

 

僕の体は、舌を制御下におくことを諦めた。代わりにラテルラの涙を集め続けた。そしてそれを隠しておいた水鉄砲に貯める。ラテルラは寂しいとむせび泣いている。ごろんごろんと灰の上を転がり、また突っ伏して全身みっともなく震わせ、鼻水を垂らしながらおいていかれてしまったと嘆く。何度か、何に、どこに、なぜ、と言葉をかけようとした。しかし僕の舌先にはギ・クルシュガンがいた。ラテルラの体はあまりに細かったので、僕は揺さ振ることもできずに、黙々と彼の涙を集め続けた。ある晩ついに、ギ・クルシュガンはトントが去ったことを認める。そして彼女がどこに向かったのかも。さざ波のような噂に乗って、彼女を追いかけるのだと。

ラテルラの涙はもはや無く、水鉄砲は満タンになり、あたりには砂だけがあった。灰は砂に混じった。森は未だに火がくすぶっている。遠くの方でチロチロと闇夜を照らしている。だけどもはやトントはいないのだ。ならば、森に向かう理由はない。僕は僕らになった。そして僕らは僕に収束し、ラテルラはとうとう追いつくこともできない。

 

「探さなければならない、俺は許されるべきだ、そうだ」

ラテルラは僕のことが見えていないように、浜へと歩き出した。不意に僕は思い出す。そういえばエルジュレが砂の粒を拾って僕に掲げながらこのように得意げに振って見せたことがある。その度に日光を反射して砂つぶはキラキラ光った。

「あのね、これは残骸なの。ワインだとか、テレビの液晶画面とか、叡智だとか。磨かれたものの残骸。でもね、磨かれたからには、美しいの。一度美しくなり、それを継続する手段がシステムとして生まれることはとても稀だよ。だけどシステムになった人がいたの。その人はずっと道路反射鏡を磨き続けていた。潮風が運ぶあらゆる汚れを毎日拭って反射率を保つことで、それが目印になると信じ、最後にはある鳩に感情が引きずられ、自らがぬぐい続けた鏡をモップで粉々に砕いたのね。やがてその鏡の破片すらも迫った波にさらわれた。そんなものの集積がこの浜なのね。だから水が風に混じる。水を飲んでいるような錯覚を抱えたまま、私たちはきっと砂の丘のてっぺんを目指すのよ。電気羊のようにね」

彼女にまた会いたいと思った。トントは二度と会えないだろうけど、エルジュレはきっとそのうち会える気がした。ラテルラは砂浜をまっすぐ進み出した。その背中が倒れそうになったら、肩甲骨のちょうど間に狙いを定めて水鉄砲を撃ってやろう。そのつもりで数メートルあとをなぞるように歩いて行った。