11月10日 のど飴
家に帰ってすぐにのど飴を探した。
一昨日からイガイガ違和感がやってきて、昨日は随分ひどかった。
朝から咳をしていたのが目についたに違いない。
バイト先の、おばあさんとおばちゃんの中間くらいの、くたびれた、だけど元気な人がのど飴を3個くれた。貰い物だからと言って。
たぶん私があまりに恐縮しているからだろう。だけど内心では図々しくもラッキーだと思ったし、それはすぐにカバンにのど飴をしまった態度できっと伝わっている。
それからみかんと甘さ控えめのカフェオレも飲ませてくれた。
飴はいかにも薬らしかった。
ハッカ、よりは、小さい頃イメージしたアルコール消毒液の味そのまま。
私はそれが嫌いじゃない。自分を甘やかそうと決心して口に含むのではないので、甘やかす気の無い味の方が、よっぽど適切だと思う。実際のど飴は良く効いた。
ガラガラなりに、元気に1日を過ごす。
そしてコンビニで100円のみたらし団子と、半額の乳酸菌入りチョコレートと、今朝もらったのど飴と同じものを買った。
カフェオレについて考えていたのだ。あの甘くて粘度のある物が喉にいいのだと、その時の私は信じていた。ツバメが低く飛ぶのを見て雨だと言いふらし、実際に翌日雨が降った子供のような気持ちで。
その日の夜はコインシャワーの残り2分を使って、体を拭いた後のバスタオルをしっかりお湯に濡らし部屋干しにすることで湿度を上げた。
私はマスクが好きじゃない。
寝る間にマスクをつけるなど決してしたくはなかった。
お布団は好きだ。それは私の全身をあますとこなく包む。皮膚と皮膚がピタリと合わさるよりよほど的確に私を温めてくれる。
だけど例えば靴下を履いたままだとか着込んで寝ることは、私のために私へ何か余計なものを引っ掛けていくということだから、煩わしいと思う。冬の厚着も好きじゃない。
部屋の湿度を上げるのは、お布団に包まれるくらい自然なことだ。重力に沿って息をするままに全身をなぞる。イガイガの気管支まで。
その甲斐あってか目を覚ますと、咳は随分落ち着いていた。
私は自分の成果に満足し、優雅にレポートを始める。
途中、咳がひどくなりかけて、慌てて温かなコーヒーを作った。
文化祭の打ち上げで余っていたのをもらってきた、ペットボトルのコーヒーに水を少し足してケトルでわかす。ちょうどムーミンのマグカップ一杯分だった。
一口でイガイガした部分が平らになり、なだらかな喉は空気をごく自然に取り込むようになる。
私はコーヒーに価値が見出せなくなり、そのまま冷たくなるまで、ベットでレポートの続きを書いた。書き上げて背伸びをした頃にテーブルに上にマグを見つける。
コーヒーが一杯より少し少なく、だけどなみなみとある。
それは残り物ではない。目的が違うからだ。
温かな時は喉を潤すものだったけれど、冷たいコーヒーは朝の嗜好品である。
だから私は満足してそれを煽った。
家を出るときに必要としなかったからかもしれない。
私はのど飴を家に忘れてしまった。昨日よりは穏やかにげほげほ繰り返す。
きっとマスクをしない私のことを迷惑に思っているだろう。私もそう思う。
空気感染なんて目に見えないけど、実際うつるのだから。
あののど飴が本当に私の喉に効果があるのと同じくらい、信じられる。げほげほ。
この講義の先生は同じ話を繰り返すことで有名だ。
どうしよう、鼻水が垂れてきた。のど飴もテイッシュもない。
私は慌てて聞いているフリのための、カモフラージュに使っていたパソコンをカバンに放り込み、トイレへ駆け込む。
ゴミ箱の上に、誰かが着替えて忘れてっただろうジャージのズボン。棚の上にはたぶん誰かのナプキン入れ。狭い個室で、それらは奇異に映る。
鼻をかんで人心地ついた私は、余裕ぶってナプキン入れを開けてみたりする。
実際にはしないけど、もし中にナプキンが余っていたら盗んでやろうかな、くらいの余裕で。だけど空っぽだ。ゴミが一つ。げほげほ。
今更教室に戻るのもバカらしい。
鼻を押さえて出て行った私をみんなが気配で感じただろう。それなりに目立っている自覚は、まあ、あるのだ。鼻水はきっかけに過ぎないのだ、と思う。
退屈から抜け出すために、神様が鼻水を遣わしたのだろう、たぶんね。
私は家に帰ってすぐのど飴を探した。
カバンにはない。ベットにも落ちてない。
棚の上でニット帽に埋もれていたのど飴は、まだ封を切っていなかった。
変わらないアルコール消毒液の味。そこでふと思い出す。手洗いうがいをしていないのではなかったか。普段なら構わない、だけど今は喉が痛い。つまりウイルスを警戒すべきで、今更な気もするが、のど飴をわざわざ口から出して、ほんの30秒手洗いうがいをした。そしてすぐ口に戻す。
こういうところほんと嫌い。
トントは言う。「潔いのか、往生際が悪いのか、それ次第だわ」
そうだな。私だって手洗いうがいをするために戸惑いもなく飴を口から出したことが潔いのか、今更だしむしろ構内に含んだものを外に出す方が衛生的に良くないのに往生際悪くしてしまったのか、判断がつかない。
「でもあなたは、優柔不断だと思ってる。だったらそれは英断だよ。もしあなたが英断だと思ってるなら、だったらそれは汚いことなんだよ」
飴の唯一悪いところは意外とお腹にたまるところだ。ご飯とご飯の間に溶けた飴がするりと入り、胃の隙間を埋めてしまう。私は満腹になってしまう。
さっき、ずっと前から一緒にお好み焼きを食べようと誘いあった女の子たちが、今日行こうと言い出した。よくあることだ。
もちろん、と返す。もちろん、楽しみだねって。
だけど私は本当は、のど飴を家で探して、パソコンの充電をしてる間に、ナプキンとシャンプーを買いに行く予定だったのだ。そのつもりだったのに。
ジャージを忘れた人も持って帰るつもりだったろうし、お好み焼きに誘ってくれた彼女たちは楽しい時間を過ごせるつもりで、もちろん私だってそれを楽しむつもりだ。
だけどお腹の具合だけが、のど飴で隙間まで埋まってしまってどうしようもない。
喉の調子だけが、少しいい。